解剖学個人授業

養老孟司・南伸坊
エッセイ 1998年(雑誌連載96〜97年) 新潮社
身近な解剖学 ★★★


『生徒の達人』南伸坊が、『解剖学教室へようこそ』の養老先生に就いてお勉強する。その提出レポート及び先生の寸評。

解剖学なんて一般の人々にはまず縁のないものである。そういう「学問」が成り立つこと自体不思議であった。
死体を切って調べる解剖という作業は、多くのミステリ読者にとってなじみ深いが、それはフィクションの中だけ。どっちかというと「法医学」の分野であろう。
昔、独り暮らしの知人が夜中に自分の部屋で急死して、数日後に発見されるという出来事があった。友人たちとそのことを話していて「やっぱり司法解剖に回されるんでしょうか」という問いに、ある人が「シボウ解剖は殺人事件のときだけじゃないの」みたいなこと言った。“死亡解剖”のつもりだった?

南生徒は目のつけどころが鋭く、軽妙洒脱な文章で何を書いても読ませるし、養老先生はやや偏った考え方があっても、これまた面白い書き手だから、相乗効果でそりゃもうスゴイ本が仕上がるかと思いきや、ちょっぴり拍子抜け。

確かに内容は面白い。
毎回テーマが定まって、興味をそらすことなくまとまっている。どこまでが先生の教えでどれが生徒の感想でどこが地の文か、渾然一体となったところもあるが、だからどうだと突っ込むことでもない。
解剖学に没興味の人でも、雑学を山と仕入れて知的満足を味わえる。本全体は南伸坊仕様であるから、ときとして笑える。
『寝言を聞いて喜ぶのは本人だけ』至言だ〜。でも、ほんとうに喜ぶだろうか? かえって蒼ざめるかもね。

では、何が問題か。
「気遣い」といっておこうか。
生徒が先生を敬うことは、世間一般での実態はともかく、道徳上のお約束である。先生だって、オマエは劣等生だ、バケツ持って立ってろと怒鳴ってばかりじゃ人気は落ち目。
なのでお互い尊重し合って、無難な経過。鼻につくというほどでもないのだが、気にし始めると目障りでもある。
この『個人授業』という形式、はたして成功したのであろうか。


運のつき

養老孟司
エッセイ 2004年 マガジンハウス
運がついてる人と運がつきた人の差は? ★★☆


人生は運だ・・・それはつくづくと感じる。いろんな事柄が複雑に絡まって、結局は「運」としか呼べないような経緯をもって今の自分があるのだから。

『バカの壁』がバカ売れした人だが、以前からいろんなものを書いていたのである。その自伝的人生論。巻末に履歴書もついてる。
話し言葉でつづられるが、談話を編集者が具体的な文にした「語り下ろし」という手法らしい。

人生は『もはや死に向かって不可逆的に進行するしかない状態』なのである。
長年死体と付き合って、「死体」が「現実」、「死体」を「自然」と言う人であるから、『自分が死ぬことなんて大した問題じゃない』と言い切る。ジタバタしたって怖くったって、誰でも死ぬんだからしかたない。理屈ではわかっても、感情では納得しないのがおおかたの人間てもんだろうな。

養老孟司の本は『人間科学』『無思想の思想』『死の壁』など、最近になってわりと読んでいるが、同じようなことが何度も出てくる。あたりまえは難しいとか、普通がすごいとか、個性は身体にある、など。真理とすべきことは繰り返し述べないとわかってもらえないのである(表面的に誤解を招きやすい事項ならばなおのこと)。
だから鬱陶しいというわけではなく、もっと読んでみたくなるから不思議。
2008年04月21日 15:47 by 蕪  ※(0)  虎(0)  随想・評論
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